
初めまして、よっさんです。
私の提唱する健財無価とは、健康でなければ、富を得ようと、そこに価値はないというものです。
現在健康産業の一員として従事しておりますが、私の生い立ちは幼い頃から病を切り離すことはできませんでした。
幼い頃は週に一度家族で外食もし、教育面では家庭教師もついたので決して貧乏ではありませんでした。ただ母親が入退院を繰り返し、精神的にも不安定だったので、家庭の中は雲に包まれた状態でした。
家族にそういう存在がいれば、いかにお金に困らなくても、心から楽しむことができないというものです。
母親が不健康であるという状況が私の反面教師となり、色々な愚かな事をやりつつも、喫煙飲酒という習慣は遠ざけてきました。
老後に備えるため、お金を稼ぐという行為は私の脳裏から切り離すことはできません。
ただその喜びを享受するのも、健康な状態がいつまでも対になっていなければならない。
その思想が私の『健財無価』です。
以下は私のプロフィールです。
- 仲の悪かった両親(誕生)
- 犬嫌いになった3歳
- 東京に戻ってきた(5歳)
- アパートの住人たち(つながり)
- 8歳、ゴキブリを見なくても済む世界が待っているんだ(北海道へ移住)
- 小学校低学年(冬も半ズボンで過ごす事を同級生からディスられる)
- 小学校低学年その2(仮病扱いされプールに叩き込まれる)
- 小学校高学年
- 同級生が不潔に感じた中学時代
- 神輿に乗せられるのが苦痛だった(中2〜卒業)
- レベルの低い私立にしか入れなかった(高校一年)
- キセルが発覚し停学処分。バドミントン入部
- 高校2年〜3年(レギュラーにしてくれない顧問)
- 高校3年(大学に行くために忌々しいパワハラ家庭教師に頼らざるおえないなんて)
- 卒業(私大の推薦入試落ちる。選んだ先は介護学校)
- 18歳おむつ交換が苦痛の実習生活(専門学校入学から卒業まで)
- 20歳(親の店で働き世間知らずを痛感した)
- 21歳(ストレスで笑えなくなり精神不安定になった)
- 22歳(映画に救われた。手の皮膚がボロボロに皮膚科から仕事をストップに)
- 22歳(プールのインストラクターになる、社会はやっぱり)
- 24歳から26歳(ビジネス学校に通う、現在まで続く友情)
- 26歳(コーヒーベンダーの会社に入社)
- 27歳(親コネでこれまたコーヒー会社に入社)
- 27歳(社会の洗礼を受けまくった2年間)
- 帰ることがそんなに悪いのか(定時に帰る事に罪悪感)
- 29〜31歳(配送中、暴風雪で遭難、生死の境目。実家に帰還)
- 31歳、経営者の父と共に(無力感を味わう)
- 33〜36歳(社員を恫喝する父から社員を守る)
- 36〜37歳(ガンが進行する母の体のケアを命じられる事が役目)
- 37歳(自己重要感に気づいた。そして柔道整復師学校へ通う)
- 37〜40歳(入学から資格取得まで)
- 40歳(汚れた40代①〜無断退職1)
- 40〜41歳(デイサービスをなりをひそめる場所として選ぶ)
- 42歳(母親の最後を看取りたいからデイサービスを辞めた)
- 閑話休題
- 43歳(所属すれば金が入ると錯覚するネットワークビジネスに参入)
- 神戸市に住む母子家庭の男性からカメラ物販を学ぶ
- 43〜45歳(汚れた40代②2社を無断退職)
- それでも常識的な悪のはずだろ?無断退職は。
- 46歳(プログラミングデビュー。成果物を作れず死亡)
- 47歳(自堕落な自分を変える必要があった〜整形外科のパートデビュー)
- 2022年、彼女と結婚(4年間の恋愛期間を得て)
- 49歳(開業権を得る為に整骨院で勤務始める)
- 51歳(まあ、何とか逃げずに留まった)
- 2年半働いた結論として整骨院の経営者は目指さない
- 労働で稼げない穴埋めを情報発信ビジネスで埋める
仲の悪かった両親(誕生)
私は1973年東京の日本赤十字病院で長男として生まれました。
父親はトラック運転手から不動産事業に職を変え、たえず金策に奔走していました。
毎週日曜日には中野にあるお気に入りの焼肉に食事に行った事を覚えています。
2歳から5歳ぐらいまで、東京と母の実家がある福島県に住まいを行き来させらました。
その理由は直接両親から聞かされていないので、それなりの自分の人生経験から鑑みる予想をするしかないのですが彼らが不和であった事が原因です。
凄惨な夫婦のバトルを見てきましたので笑
犬嫌いになった3歳
福島の祖父母のところに預けられていたのはタロという飼い犬の記憶です。
写真は実家のどこかに残っています。
とても従順な子でした。
尻尾を掴んだり、首を締めても怒らない犬だったと言います。
3つくらいの男の子が首を絞めたとしても大型犬のタロは本心は嫌だったでしょう。
彼は市中で犬小屋を引きずっている所を確保されたり、綺麗な雌犬を孕ませた廉で飼い主が祖父母に怒鳴り込んできたという逸話があります。
タロは私が東京に戻って以降、とうとう脱走を成功させ行方を晦ませてしまいました。
スティーブマックイーンの『パピヨン』の様です。
犬が後年まで苦手になったのは『ラッシー』から受けた心の傷が原因です。
奴は近所の駄菓子屋で飼われているコリー犬でした。小さい体で駄菓子屋の勝手口で遊んでいると大き影が私の背後に躍りかかってきました。
ランニングシャツに食いつかれ、ビリビリに引き裂かれ『離してー』とギャン泣きした記憶が残っています。
奴にすれば害意はなくおもちゃで遊んでいる程度のものだったかもしれません。
その経験が私を徹底的な犬苦手の男に仕立てあげてしまった笑
たまあに外を散歩し、向こうから散歩犬が近づいてくるとリールで繋がれているのに、握り拳を固まることがあります。
東京に戻ってきた(5歳)
当時、母は不倫をしていました。
父親が札幌に単身渡り、商売の地固めをしているとは申せ、27、8そこそこ。
結婚していると言っても恋を押し殺せない年齢です。
不倫相手は設計士の45歳のおじさん。名前は『 Sちゃん』とガキの頃から呼ばせられました。
『Sちゃん』はとても紳士で優しいおじさんでした。
激しい夫にはない優しい気性にグラッときちゃったのでしょう。
出会いは分かりませんが、母は当時阿佐ヶ谷でチーママをしていました。多分これ予想ですが、店にくる客だったと思います。
毎日ではなかったですが一人寝をさせられることがありました。
真っ暗なボロアパートで母寂しさに布団の中で泣いたものです。
私たち一家が後年札幌に移り住んだ一年後にSちゃんから連絡が届きました。
母とSちゃんは関係に終止符を打ったはずなのですが連絡のやり取りをしてたのだと思います。
電話をとった父がSちゃんに『てめーこらー』と罵倒していました。
内容は『〇〇ちゃんを返して』と懇願していたらしいです。
Sちゃんは母より15歳離れていましたから、ご存命であれば90歳を超えています。
生きているのかなあと時々思い出します。
アパートの住人たち(つながり)
悪い事ばかりではなかったです。
友人もいました。
二階に住む一個上の『しんちゃん』
隣に住む、岩手生まれの『しゅんちゃん』
アパートから100M離れた所にある一軒家に住む『まーくん』
この三人は最良の遊び仲間でした、1978年当時は戦隊モノが流行り、しんちゃんが『赤』まーくんが『青』しゅんちゃんが『黄色』
そして私が『緑』を演じ、近くの神社の境内で棒切れを振り回して遊んだものです。
このアパートは練馬にあったのですが、住人の父親達は季節労働者でした。
私たち親子が起居するアパートは一階にあり、その真上に、しんちゃん親子が住んでいました。
当時、『あしたのジョー』の再放送が放映されていて、エンディングテーマを弟と二人で合唱し、翌朝、ニヤニヤ私の顔を見ながらエンディングテーマを口ずさまれた時には、顔が真っ赤になるのが分かるほど、ハズかしかった事を覚えています。笑
8歳、ゴキブリを見なくても済む世界が待っているんだ(北海道へ移住)
ボロアパートの外には、水飲み場と風呂場がありました。
水飲み場は共用でしたが、風呂場は教養ではなく、我が家が独占して借り切っていました。
家賃の中に含まれているのに、独占もへったくれもないのですが、表に風呂場があるというのはとても不便なものでした。
我が家で借りているものなので、当然隣人たちは使えません。
この風呂場の燃料は定かではないのですが、定期的に業者が補充しに参ったので、灯油か何かだったのだと思います。
風呂の中で、よく弟を泣かせて、母に怒られたものでした。
東京はもちろんゴキブリが出る所です。ある日、母から『お風呂が沸いたから入ってきなさい』と促され、風呂場に向かった時、風呂場の隣にある、水飲み場に、大量のゴキブリが蠢いているところに遭遇しました。
水飲み場と風呂場の周囲には外灯もない。
ただ大きな虫が羽ばたいたり、走り回っている。ただですら目が良い子供だから、ゴキブリだと確信したのです。
『やっぱり入るの止める!!!ゴキブリが沢山いるから』と頑なに言い張って聞きませんでした笑
1980年。北海道に移住することが決まりました。
父が事業に着手し、妻、子供を迎え入れる状況が整ったからです。
北海道には住んだことがない、でも雪が多く、寒いところにはゴキブリが生きられないということはわかっていた。
遊び仲間と別れるのは辛かったけど、それ以上にゴキブリを見ずに済む世界が待っている事が嬉しかったものです。
小学校低学年(冬も半ズボンで過ごす事を同級生からディスられる)
この頃は辛かった。。。新天地はもっと明るい世界のはずなのに。
一言では言い表せないぐらい、暗い生活。
今でのあの頃を思い出すと、感情の渦に巻き込まれ、グッと沈黙してしまう。
あんなにちっちゃい少年に対して、『お前よくあんな酷い仕打ちができるね』と思うことがある。
東京の少年は春夏秋冬、半ズボンで過ごすんですよ。
そのノリで冬も半ズボンで過ごしました。代謝が良いのかわからないけど、寒さには我慢できたんです。
でもクラスの中ではよく同級生にディスられました。
周りはジャージばかり。
1980年代の北海道の小学生はジャージ上下で過ごすんです。
東京で育ったこっちの方から見れば、逆に滑稽に感じるくらい。。。笑
皆、太腿の外側に二本の白線が走っているジャージを着ている、『お前ら仮面ライダーかよ』って感じです。
子供は残酷です、思考回路、外見、自分たちと違うと察するとあからさまに排他的な態度を出す。
とにかく馬鹿にされました。本当はみんなと同じようにジャージが着たくて、両親にそれを告げると
『こっちは東京もんだ。北海道の田舎もんの言うことなど、放っておけ』と父親から一蹴され、弱腰を罵倒された。
あと思い出すのは小学校3年の担任のエピソードです。
小学校低学年その2(仮病扱いされプールに叩き込まれる)
人は忘れる生き物だと言いますよね。
そんな事はどうでも良くて、酷い仕打ちを受けた事は忘れないんですよ。
これは恐らく死ぬまで忘れないと思う。
当時、私は金づちでした。本当に泳げなかったんです。
体育のプールの授業には参加していました。
子供たちにも泳げる子と泳げない子に大別され、泳げない子に対して、担任は子供を罵倒し
『ほら先生の手をつかめ。絶対に離さないから、手を掴んだら、バタ足をしてみろ』
と怯える同級生の子の手を掴み、バタ足をしばらくすると、手をパッと離す。
もちろん、信じていたのに手を突然離されたら、動揺でバランスが取れなくなって顔に水がつかりプールの水を飲んでしまいますよね。
『ゲホゲホ』と咳き込む子供を見て、担任は『ほらちょっと泳げるようになったべ』とゲラゲラ笑っている。
『自分もああゆう事をされるんだ』と体の大きな子の後ろに隠れて、ガタガタ震えていました。
当時、私は女の子の様に長い髪の毛をしていました。新天地にやってきたばかりで、行きつけの床屋を探す暇が両親になかったから、散髪は後回しにされていたのだと思います。
担任は私をターゲットにしました。
『おめえは女みてえな髪してるな』と揶揄してきました。
勉強はとても苦手だし、できなくて、算数がとにかく嫌いだった。
算数が苦手な子供は一番前の席に座らされ、罵倒されるのです。九九も小学校3年の終わりころにようやくマスターしましたからね。。。
話は戻ります。
算数が苦手な私とM君は隣同士、机を付けられて、担任の『個別授業』を受ける羽目になりました。
『おめえはこんな簡単な計算も分からねえのか』
怒鳴られるほど、思考は真っ白になり、何も考えられなくなってしまう事を尻目に、担任の声は益々荒ぶる。
『早く問題とけえ』
私とM君は震えました。
泣きました。
泣くという表現は助けてほしいと言う最大の選択肢です。
それでも追い詰めることをやめない。
鬼です。
『うるさい、早く解けえ』『解けねえなら、こうすんどお』と持っている定規を振りかぶり、叩く真似をする。
『えうっ』と条件反射に解けないのに、なんでも良いから、問題用紙に書き込もうとした時に手元が狂って、自分の手の甲に鉛筆の芯を突き刺してしまった。
自分で突き刺してしまったけど、とっても痛かった。。。
『わああん』と泣き出すと。『自分でさして、アホかおめえは』と担任はせせら笑った。
夏の終わり、大雨が降りました。
大雨が降ると、プールの授業は休みになるけど、その日は決行されました。
この日の朝は喉が痛く、熱が出ていました。
父親は学校は這ってでもいけという精神論の持ち主だから、休ませてはくれなかった。
プールは大雨だし、休みになるだろうし、風邪を引いていることを伝えれば、先生は休ませてくれるよ。と母から言われ、あえて水着は持っていきませんでした。
2時間目、プールの授業。『先生、熱あるんです。プール出れません』と担任に伝えると、
『そうか、休んでれ』と言って教室から出て行きました。
『ああよかった、わかってくれた』と安心し、重い体を突っ伏して机の上で寝ていました。
プールが終わり、着替えを終えた、同級生たちが教室に戻ってきました。
授業と授業のつなぎ目は休み時間です。
着替えの終わった担任は職員室から教室に引き返し、私の席に向かってきました。
『松本、水着持って、ついてこいや』
頭が真っ白でした。熱が出ていると言うのになぜ!?
『海パンに着替えれ』
体の小さい子供に拒否する強い主張力などありません。
『はい』
ガタガタ震えながら着替えるとおもむろに『そこにたて』と命じられました。
プールサイドに近づくと、背後から無言でプールの中に叩き落とされました。
不意打ちと衝撃で、反応がとっさにできず、大量のプールの水を呑み込みました。
『ゴホゴホ』
鼻水と咳き込みと涙で顔はくしゃくしゃでした。
『風邪とか嘘つくからバチ当たるんじゃあ』と罵倒された。
頭の中はショックで真っ白。
午前の授業が終わる頃に熱が更に上がり、給食も食べれないほど衰弱しました。
この有様を見て、担任はようやく嘘ではなく、本当である事を納得したのでしょう。
午後の授業は参加せず、帰宅して良いと許可を出しました。
家に帰ってから39度まで熱が上がり、三日三晩、うなされ続けました。
風邪をひいているのに、水着が濡れている事を不審に思うはず、母は担任に対してクレームの一つでも入れてくれたのだろうか。
今でも疑問に思います。
担任の名前は北島。40年以上得た今でもあの頃の仕打ちを覚えています。
『見つけ出してやりたい』『なぜあのような事を俺にしたのか』
思い出すことに何の価値も生まれないことはわかっているんです。
でも、それでも時折思い出すと、『あいつ生きてるのかなあ、どこに住んでるんだろう』と
自分の心はドス黒いものに包まれます。
後に母から聞かされたことですが、Kは勤務中、同級生の母親との逢瀬が発覚し、転勤させられたとのことです。
小学校高学年
家で過ごす事が好きでした。
好きだったものはアニメ。アニメなら何でも良くてこれじゃなきゃと言うこだわりはなかった。
北斗の拳、アルプスの少女ハイジ、流れ星銀牙、キン肉マン。
ジョジョとかシティハンターはもう少し後になるけれど。
アニメは癒しだったんですよね。
ガチャガチャでキン消しをコレクションしていました。
バッファローマンとウォーズマンを机の上に立たせて、ドンドン拳で机を叩く遊びなんかをよくやっていました。
後に勉強の妨げになると、両親に全部捨てられてしまったんですけれどね。
同級生が不潔に感じた中学時代
中学校入学。みな同級生がモンスターに見えました。
11歳から12歳の成長スピードは半端ないもので、とにかく男どもは性関連の話題ばかりでした。
中には授業休み中、仲間の手を使って自慰をさせている者までいました。。。
入学時はとにかく狂乱の中へ放り込まれたようなものでした。
とにかく同級生が性のエネルギーでギラギラし不潔に見えた。
勉強も高度に難しくなり、理解ができず、目まぐるしく行われるテストに翻弄された。
当時、私は身体が小さく人見知りで、大人から恐怖を刷り込まれてから、人の目を見て話す事ができない少年でした。
それは上述している様に小3の担任北島からパワハラを受けた事と厳格な父の存在があったからです。
神輿に乗せられるのが苦痛だった(中2〜卒業)
私は小学校4年生から坊主頭で、中学生になってもその流れを受け継いで坊主を継続しました。
あだ名はゴルゴとつけられた。それは私の上に跳ね上がった濃い一文字眉とキリッとした面立ちに由来していました。
女子からも注目を浴びていました。
普通ならそれを利用し、恋愛の一つでもできたでしょうが、女子たちとどう言う風に接したら良いか分からなかった。
『ゴルゴ、バイバイ』と下校時に挨拶されても、スルーしました。
女子に向かって挨拶するなど恥ずかしかった。
自信がなく自己否定の塊だっだんでしょうね。
そんな私の気持ちをほぐそうと、周りは躍起になった。
クラスの不良グループやませている子たちも私に絡み、学芸会の雛壇に祭り上げられ、彼らが考案した振り付けをさせられて、喜劇役を演じました。
しかし一向に彼らの好意に乗らず、懐に入ろうとしない私が憎たらしくなったのか、それまでの様なあだ名を呼ばず、『松本』とか『おい』と呼び掌を返す態度に変わりました。
私は沈黙を守り、彼らの存在を風景化し、早く卒業することだけをひたすら待っていました。
レベルの低い私立にしか入れなかった(高校一年)
私立高校に入学しました。
現在も同じでしょうが、公立高校と私立高校の選択肢が皆ありますが、私は私立しかありませんでした。
中学のランクはJランク。頭が悪く勉強ができなかったのです。
人種のレベルはガクンと落ちました、中学はできるやつ、できないやつが集まっているから自分が埋没していても周りにバレないし、誰ができるのか、できないのか、それすら分かりません。
できない人間が教室に寄せ集められた時、澱んだ水の中に浸ってしまった事を実感しました。
やめる選択はありませんでした。休んだり、退学すると言う事は恥ずかしい事だと思っていたんです。
キセルが発覚し停学処分。バドミントン入部
思ったよりも学校は辛い場所ではありませんでした。
素行はいいけど頭のわるいやつもいる、ヤンキーもいる。
総じて共通するところは愚鈍だと言うこと。他ならぬ私もそうです。
当時の私にとって、愚鈍な彼らがなぜ都合が良かったのか?それは頭のいい人に特有な感情の機微を摑み懐に入ってくる様な才覚がないところです。
頭が良く自信がある子は、スピード感がある分、どんどん間合いを詰めてきます。
人間不信の私にはそれがとても怖かった。『俺に構わないでくれ。』と畏れが先んじた。
うまく言えないけど本当にそんな感じなんです。
話が変わりますが、同級生と街中にお好み焼きを食べに行き、帰りに子供用の切符を買い、改札に向かう時、いつもの方向が分からなくなって駅員に聞くと
『確認するので切符を見せてください』と促され、切符を出すと『あれ?何で君高校生なのに子供料金の切符を買ったの?』と問い詰められました。
悪意がないと言う言い分は通用しませんよね。
キセルと言う行為が違法である事を、この時知ったわけです。
本当に無知でした。
学校や親には連絡されませんでした。おそらく、私の大人しそうなところと坊主頭の外見に情状酌量の余地を与えてくれたのではないかと思います。
帰宅してから、正直に母親にその事を報告しました。
『キセルは大罪よ。私の若い頃、OLだった時、キセルが発覚し、駅員に襟髪を掴まれて引き摺り回されていた女性を見た事がある、火付盗賊と同じ様な扱いだったんだから。もし万が一学校に報告されれば、あんた退学になるかもしれないよ。』
『ここは先んじて、自分から担任に告白した方がいい』
その通りにしました。
処罰は停学1週間ぐらいだったと思います。
『素直に言ったのになぜ停学なんだ』という怒りではなく
『もし伝えなければ本当に退学だったのだ』
戦慄が走りました。
停学の何が辛かったのか。担任には恥ずかしいから、自分の不在が停学が理由だからという事は伏せてほしい、と伝えたにも関わらず、同級生たちにバレていたのです。
停学になった者は専用の部屋に入れられ、反省文を書かされます。その部屋は3部屋ほどだったのですが、様々な悪ガキたちが用もなく出入りしていました。
狭い世界です。そこで最近キセルで停学になった奴は坊主頭の1年だと広まったのでしょう。
野球部でもなければ好き好んで坊主にするものなどいないから、私である事は容易に検討が付いたのでしょう。
高校2年〜3年(レギュラーにしてくれない顧問)
1年生からバドミントン部に入部しました。
中学1年の放課後、体育館から聞こえる『スパーン』と響く、シャトルを叩く音を聞いた時
『はー気持ちよさそうだな』という記憶が残っていたのです。もし高校から部活をやるならバドミントン部と決めていました。
最初は力任せにシャトルを叩いていましたが、ラケットの振り方が自己流で顧問が教え下手なので一向に上達せず、練習試合でも女子に負けていました。
その当時母親のママ友がバドミントンをされていて、『息子にも技術を教えて欲しい』との要求を快諾され、大人のサークルにお供させてもらいました。
フットワークと振り方が全くあかんという事で1から基礎を学び始めたら、みるみるスマッシュの角度も鋭角的に打てる様になり、部のシングルでは誰にも負けなくなりました。
ただ顧問は、一向に試合で他の奴らをシングル、ダブルスに出しても、私を出してくれる事はありませんでした。今当時を省みると、私が上達したのは裏の課外授業によるものだという事を察知にプライドを傷つけられた事による腹いせだったと思います。
正規の実力を評価しないズルイ大人の典型です。
母親はその頃の腐る私を見てられなくなり、学校に私の知らない事を他所に顧問に直談判しに行きました。
その話を夜に聞かされましたが『あの男はじっとりとした目で私のお尻を見ていたよ。気持ち悪い男、もうやるだけやったんだし、行くのが馬鹿らしくなったならやめちゃえば?』と申していました。
評価されない努力を続ける理由はないと決断し2年の2学期に退部しました。
高校3年(大学に行くために忌々しいパワハラ家庭教師に頼らざるおえないなんて)
私の家庭教師歴は古く、小学校3年生から家庭教師の存在が途切れたことがありません。
親は教育熱心でした。
でも矛盾しており、本人にその気がなければ成果に直結しません。
家庭教師がついていながら、私はずっと落ちこぼれでした。
特に数というものが大の苦手で、暗算が解けない私をグーで殴った親父。小学校3年の担任北島の恫喝算数教育のトラウマが残り続けていました。
算数と聞くだけで胃がキューッと握りしめられる様な苦しさを感じました。
高校2年の時、北大生のバイトが家庭教師になりました。
名前はN。
宮城生まれで身長180センチ、中日の星野監督のファンで、顔が馬の様に長い奴でした。
とにかくそいつの恫喝は目に余るもので、両親が別室で日常生活をしているにもかかわらず、憚ることなく勉強部屋で『バカやろー』と怒鳴る強者でした。笑
普通は教え子と言っても、その一家から金をもらっているわけだから、怒鳴るとしても親の近くでは言わないと思う。笑
怒鳴られた時、恐怖で固まりました。
でもあの頃の自分がすごいのは、全てを丸暗記してしまったところです。
数学の公式も古文も何もかも。公式にしても、問題を解いて間違うと奴の怒声が飛んでくる、でも何度も間違い解いているうちに目が慣れて間違わなくなる。
問題を解くのに思考は全くしていませんでした。
この当時はバドミントンでコートを駆け回り、館内を走り込みし、運動を人一倍やって心肺機能も上がり体力に自信がつく、鍛える事で脳の容量も上がったから記憶力が上がったという推論があります。
レベルの低いバカ高校でしたが、もし仮に公立校に進学していたとしても、当時の記憶力と集中力を持って落ちこぼれの境地を切り抜けて、私大ぐらいには入学していたと思います。
ただ思考の伴わぬ記憶術は脆いもので一週間も経つと全て頭から消えていきました笑
卒業(私大の推薦入試落ちる。選んだ先は介護学校)
私大に落ちました。
受験したのは札幌市の某私立大です。
そこに息子を合格させてもらうためにも両親もNの恫喝を忸怩たる思いで見過ごす様にしていたのでしょう。
問題は小論文と面接。
合格発表を見届ける事なくNは家庭教師を辞めていきました。
これは回顧談ですが、母親曰く『先生は最初からあんたの実力では無理だという事を見越していたから、段々居心地が悪くなったんだろう』と申していました。笑
自分が優位であれば居丈高な態度で臨み、不利に慣れば尻尾を巻いて逃げる。
卑怯な人間の典型です。
進路は他の大学もありましたが、揃いも揃って、札幌圏外の僻地大学。
担任の誘いも蹴って、介護系の専門学校に進路を定めました。
18歳おむつ交換が苦痛の実習生活(専門学校入学から卒業まで)
介護学校に進路を定めたのは親の勧めです。何をしたらいいのか本当にわからなかった。
詰め込み暗記教育の弊害です。
経理系もダメ、工業系もダメ、あんたはばあちゃん子で気立ての優しい子だから、その関連の業種が存在価値を見出し生きていけるんじゃないかという、楽観的な見通しで親子一致で決断したというわけ。
学校は自宅から1時間半離れていたところにある石狩市の隣に位置するあいの里という場所にある学校です。
2年制であり、通算2ヶ月余りの実習を得て、介護福祉士の国家資格を得られるわけです。
当時は通学すれば進級でき、真面目に学校に行っていれば卒業と同時に資格のパスポートが得られるという壁の低いものでした。
当時何が一番嫌だったのかって?
それは実習のおむつ交換です。介護福祉士がどういう業務があるのか、それぐらいの事はわかっていましたが、いざ、他人の糞便を目にすると余りの臭さに尻込みしたものでした。
実習だから嫌々臨みましたが、『これは俺にむく仕事ではない、資格をとったらこの世界には進まない』と心の中で断定的に決定しました。
二年生になると定期的にサボりました。授業に間に合うためにいつも朝7時の電車に乗らなければならない、その生活に辟易していたのです。
もちろん教務から自宅に連絡があり、連絡を取った母親からズル休みの所業がバレ、雷を落とされました。ズル休みと言っても、月一で起床時に『ああだるいな、休も』と発作的に取るぐらい。
しかし、この当時、ホルモンのバランスや不定愁訴といった医療者から見て言語化できない症状は認めてもらえず、風邪なら何度の発熱であるかとしっかりと届けなくては学校が認められなかった。
卒業間近の二年生の二学期から真面目に通学した事と、幸いにも女性の担当教諭がいい人だったので、卒業し無事、介護福祉士の資格を授与されましたが、冒頭の様に施設に就職する選択は取りませんでした。
20歳(親の店で働き世間知らずを痛感した)
専門学校時代、夏休み冬休みを親の経営するゲームセンター兼カラオケボックスでバイトをしました。
弟も一緒に強制的に働かせられました。
当時何をやっても儲かるというバブル全盛期です。
特にカラオケは儲かりました。
大型店舗で40部屋。一部屋当たり6名収容できるカラオケルーム、そこにゲームコーナーエリアも用意されていましたので、週末や祭日、そこに学校の休みが絡むと遊びに来ますから、売上の良い日は1日130万〜140万ありました。
介護施設に就職しない条件の代わりで親の仕事を担い、社会の実体験をつむ役目を選びました。
当時社員ではなく、パート従業員の雇用形態でした。これは経営の両翼を担ってきた父と母の決定でしたが今となっても分かりません。
ただ我が社の社員たちの仕事は寝食を削るほどの激務ぶりだったし、それを見てきた当時を振り返っても給料よりも自由度の高い立場の方が私にとっても楽でした。
そんな感じ。
現場の初デビューは厨房。メニューはピラフ、鳥唐揚げ、ハンバーグ、フライドポテトなどの冷食サービスがメインです。
完全仕込みでない分、調理のハードルは低くて誰でもできる業務ですが、求められるのは注文した部屋から『遅い!』とクレームが入らない様な手際の良さが命でありました。
調理といえば、マルちゃんの袋麺を茹でたり、りんごの皮むきしかしたことがない青年にとっては難関でした。フライパンをひっくり返したのも現場が初めて。
最初はひっくり返した拍子にピラフをフライパンの外から飛ばしたり、フライパンを熱くしすぎて、焼きそばを焦がし、そう言った不手際品を抜け抜けと客室に運んだのでクレームが入りまくりました。
厨房では社員とバディを組むのですが、どんなにポンコツと言っても、私は社長の息子だから、本人の前で『あんたはポンコツだな』と言えるわけないですよね。
でも客からクレームが入るわ、調理の手を止めて、ポンコツのフォローをする毎日に限界が達し『息子は使い物にならない』と自分の同僚に恨み節を残して、無断退職していった社員が2名います。
21歳(ストレスで笑えなくなり精神不安定になった)
私の人生の中で当時は本当に辛かった。
夜勤だから毎日眠い、眠い目を擦って1時間以上離れた現場に通勤する毎日。
現場は自分と同学年のバイト達。そして世間知らずのあまちゃんが社長の息子と来るわけだから、そんな奴に指示だしされたくないと敵視してくる。
敵視はあからさまでした。
私が仕事を頼んでも、はいわかりましたと敬語を使いつつも、こちらを見る視線は冷たく、ひどいのになると睨み付けてくるのもいた。
眠い、厨房が忙しすぎて水も飲めない、休みは週一、暮れや元旦、gwが絡む月になると1ヶ月休みがないという時もあった。きている客を見ると私と年格好が変わらない楽しげなカップルばかり。
『なぜ俺だけ』『こんな理不尽な生き方を歩まなければ認められないのか』
あらゆる感情の渦が心に巻き起こり自制する能力がなくなりました。
逃げたい。でも逃げられない。逃げれば一家一門が馬鹿にされる。
大成を果たした経営者を見れば、一門から落伍者が出てしまったと言っても取るにたらぬ事実に過ぎないし、銀行の借受がストップする事などないでしょう。
でも一言、努力して経営の地盤を築き上げた父親が嘲笑される原因の種になってはいけない。
それが勤務を続ける理由でした。
22歳(映画に救われた。手の皮膚がボロボロに皮膚科から仕事をストップに)
2年間厨房業務を行い、手は崩壊していきました。
一番の原因は皿洗いでシンクに溜めた業務用洗剤を浸したぬるま湯で食洗をする行為がよくなかったのです。
職種の領域は他種あろうと人間のサイクルは決まっている。
起床し、お日様が出ているときに働き、帰宅後食事し、入浴、寝る。
その体のシステムは不変です。
要は私の免疫は低くなっていて、手荒れの悪化を辿っていった。
皮膚科から『仕事をするのは自由。でもこのまま続けていくと治らない、悪化するよ』
その文言を両親にそのまま伝えた夜。
『もういい、よく十分やった。現場上がろう』と言ってくれました。
毎日辛い中、乗り越えられたのはも一つ理由があります。
それは『アルパチーノ』笑
遊べない、寝られない、彼女も作れない、そんな魂の拠り所は彼の映画だったんですよね。
『セルピコ』『狼達の午後』『スケアクロウ』『ゴッドファーザー』『セントオブウーマン』
『カリートの道』
これは私のプロフィールであって映画のレビューではないから感動した内容は割愛させて頂きますが笑
スクリーン一杯、小柄な体を使って、主張とは何か、自分の人生の命題とは何かと表現している。
彼の演技を見た時、子供の頃から脱しきれない劣等感から脱却し、大人の男として歩もうときっかけを与えられたんですよね。
映画で救われました。
私は店から上がり療養期間を過ごすことになったのです。
22歳(プールのインストラクターになる、社会はやっぱり)
療養期間は充実していました。
仕事は気力体力が充実してからで良い。
経済面は親が援助する。
リア充。今でいうパラサイト、親の脛齧り。色んな言い方があります。
朝はだらだら起き、昼間は近所のレンタルビデオ店に行き、アルパチーノ、ロバートデニーロの作品を借りる。この時期作品を言えば枚挙に暇がないほどたくさんの映画を観ました。
そして体が鈍る前にフィットネスクラブ、区民プールに行き、泳ぎに勤しむ。
家では腕立て、腹筋、スクワット。体力は充実し、腕立てに関しては毎日200回連続で行いました。
体力はつくが、知力面は意識しないから頭が良くならない。好きな時に起き、好きな時に食べ、好きな時に寝る。半年も立つと時間や日にちの感覚がなくなり。
自由のありがたみを忘れてしまう。
次第に親も日がなゴロゴロする私を持て余し、『そろそろ身体戻ってきたよね』という口調から『もう働きなさい』と態度が一変する様になりました。
通っていたフィットネスのコーチからスカウトを受けたのもこの頃です。
私は二つ返事でオファーを受けました。
しばらくはパートだが3ヶ月の試用期間が済んだ後、社員に登用するという条件で。
ただ仕事は厳しいというか屈辱的でした。
朝8時過ぎに出社し、塩素をつけたプールの水質が変化しない様に水面に張ったシートを回収し(水を含んでいるからめちゃめちゃ重い。巻く作業が難しく大変)
朝から行われる親子コースのサブをした後は昼食の12時までプールサイドを巡回し、定期的に水温と水質検査をする。
食事を終えた13時から15時まで一般開放されているプールサイドの巡回。床磨きを実施。
15時からはジュニアコースを担当している北大生のバイトが出勤し、彼らのサブを務める。
コーチはフォームの指導や会員に泳ぐ誘導を促し、サブコーチはプールサイドに立ち、事故を未然に防ぐために目視や会員への声がけをする役目です。
18時にジュニアコースが終わると、次は大人のコースのサブを務める。
3ヶ月を超えても一向に正社員に登用する登用する気配がありませんでした。
一度直談判をしました。『試用期間が終わったがいつ正社員にしてくれるんですか?』と。
すると『お前は、まだ社員になれるレベルに達していない、それどころか、お前の対応ではクラスを持たせても事故が起きる。クラスも任せられない』と。
本来冗談じゃありません。と反論するべきところをそれができなかった。
親の元で仕事をする以外、社会を知らない。反論をする事が恐ろしかったのです。
まずは一年バイトを頑張る。一年後もう一度お伺いを立てようと居残ることに決めました。
ここで敵対者が一人いました。33歳の女性コーチです。
暴言を吐かれました。『なぜちゃんと子供を見ないの?』『なぜ今その仕事が優先なの?』
言葉の羅列を見ると最もな事ですが、彼女は手も出る女でした。
一度サブに入った時、プールの水をかけられた事がありました。一番鮮明に覚えているのはシャワーを浴びずにプールに入ろうとする子供達にシャワーをかけてあげる作業をしていた時、横合いからシャワーヘッドをもぎ取られ
『こういう掛け方をするのがあんたの正しい方法なの?』と顔にシャワーをぶっかけられました。
社会で受けた初めての洗礼です。
頭が真っ白になりました。
私は子供の体にかけ、水帽を被った子供たちに普通にかけていたんです。何に対して勘に触ったかわからないけどね。笑
ときめいた日もありました。
夜の一般開放の日に可愛い会員さんが泳ぎにきていました。
水中眼鏡をかけていても傍目でわかる美形の女性です。
退屈で、嫌な女性上司がいるところとして職場は様変わり。その中でこの方の存在にここに残る理由を見出しました。
この頃私は恋愛に対して積極的になりつつありました。
自分から行動しなければ何も始まらないから、まずが存在を知ってもらうために挨拶から始めました。
『こんばんは』と挨拶すると『こんばんは』と相手も挨拶を返してくれた。
挨拶を返す口元に微笑みをたたえていた様な感じもしました。
テンションが高くなっていたから何でも良い様に解釈していたのだと思います。笑
話は戻りますが1年半が経過する時、上司に対して正社員になる事ができるのかと念押ししました。
『まだできない、様子を見させてほしい』との返事が返ってきました。想定はしていたので自分の対応も用意していました。
『3ヶ月とおっしゃっていたけど、約束が違う。それならば退職させてもらいます。』
自信たっぷりに見えるけど、実際はもっとオドついた口調で話していたと思います笑
退職したのは1996年の23歳を迎えた冬の2月でした。
24歳から26歳(ビジネス学校に通う、現在まで続く友情)
フィットネスを退職した後は親の経営するゲームセンターの店番をしていました。
この頃には両親夫婦は一軒家を建てました。ちなみに母亡き後も父は健在に同じところに住んでおります。
実家から通っていました。
一年が経った時に母が経理を学ぶために学校に行かないと提案をしてくれました。
この頃には父の事業は拡大し、社員も大量登用している、母の実の弟(叔父)が経理の中心を担っていたけど、そのポジションを次ぐ存在を考えていたのでしょう。
我が家は同族経営ですが、会社は大きくなればお金の流用も盛んになります。でも真意はそれだけではなくて経理は潰しが効く、その先見の明から、息子に有用な資格を今度こそ得てほしいという親の願いもあったのだと思います。
ただ当時の私は勉強の反面、違うことも考えていた。
『それは失った青春を謳歌できる』『彼女を学校で作る』とかそんな下衆な事を。。。
私は経理クラスでしたが、観光クラスの『O君』とは現在も友人関係が続いています。
ここでは言い訳はしませんが親に学費を払ってもらいながら、目的を履き違えたのか。
履き違えたというのは若干表現が似つかわしくありません。
学校で出会いを謳歌し、授業に臨めば、資格は得る事ができる。不純なものではありませんでしたが比重が、バランスが女っ気の方に傾きすぎていました。
この頃恋人を満足に作れた試しがなかったから、憧れを現実化したいと渇望していたのです。
授業は車で行っていました。
授業が終わったら、Oの友人の貿易クラスのK君の部屋で3人で酒を飲む。
女っけ欲しさにナンパを企て、私の車で小樽ドリームビーチに参陣し、女子達をゲットし、Kの自宅で朝まで狂騒に耽りまくりました。
でも女子達の目線はかっこいいKに釘付けで、私とOは酒を飲まされて潰される羽目に。。。
でも楽しかったなあ。
母は私に日商簿記二級は取って欲しかったのです。
しかし二級は愚か三級も取れなかった。取れたのは全経二級まで。日商と全経、比肩するまでもなく前者の方が求人的価値は高いです。
後者は通学しなくても通信で取れるレベルです。
生涯の友は得られた。
でも2年の代償も大きかった。資格という結果が得られなかった、全経では就職できません。
ましてや時間的余裕のある学生。それに26歳の男性です。
だんだん社会的信用を構築する事に向き合わなくてはならない年齢である事だけは実感していました。
26歳(コーヒーベンダーの会社に入社)
1999年。
バブルが崩壊しました。
北海道拓殖銀行が経営破綻し、就職氷河期に突入していました。
親の会社に入社したい、、、要望が却下されるわけではなかったのですが、外の世界で飯を食いたいという欲求が優っていました。
就活は思う様に運びませんでした。食器の営業、生鮮の社員。様々の面接を受け落ちまくりました。
愕然とすることはなかった。その点はポジティブでした。
1社面接が決まれば、安堵せず、更にもう1社面接希望をする。
そう行動すればへこたれる余地は生まれません。
就活から4ヶ月が経とうとしていた頃、面接を受けたコーヒーベンダーの会社から採用通知が届き、一週間後に勤務を開始しました。
この頃頭を丸めていました。採用担当は私より3歳上の統括マネージャーでした。
彼は私の採用を決めたのは髪型に気合を感じた。チャラチャラしていないのに好感がもてたということです。
実際の私は真面目ではありません、真面目と判断される材料が髪型であるわけですから社会の評価というものは抽象的なものだと感じます。
ここで後々まで引っかかる材料を呑み、入社しました。
それは社員でないということ。3ヶ月試用期間後、社員にする。しかし3ヶ月以降になっても社員にする気配が見えませんでした。結局半年経過した頃、社員登用されるのかと所長に直談判した際、もうちょっと様子を見させてほしいとの事。
これはフィットネスクラブの頃の手口として経験済みです。
もうちょっともうちょっとと言いながら、重宝に使われる。給料は時給。業務量は社員と同等である。
結局お断りしました。
27歳(親コネでこれまたコーヒー会社に入社)
親のコネを初めて利用しました。
その先はコーヒー会社。
コーヒーを自社で作っている会社。
こんな業態はPB(プライベートブランド)と言いますね。
コーヒー以外でも他社ブランドの冷凍食品、冷蔵食品、缶詰を仕入れ、ホテル、レストラン、食堂、学校給食に卸す。
この業態は利益率20パーセント出れば御の字です。
当社は私の親と取引上のつながりがありました。
早い話そういうコネです。札幌の中島公園に本社があり、社長と部長が面接官を務めてくださった。
採用条件は新入社員は地方に転勤する事を承諾するなら決まりというもの
もし呑むなら釧路に転勤してほしい。
断る理由はありませんでした。札幌はもう良い。8歳から19年、通算で住んできたし。
もう飽きた。
でも釧路は遠かった笑
札幌から当時8時間かかったんですよ。当時ランクルのマニュアルに乗っていて、現地まで家財道具を詰め込み、これから住処となるアパートに向かいました。
アパートは喫茶店のオーナーが大家で、部屋は喫茶店の二階にありました。
27歳(社会の洗礼を受けまくった2年間)
上述した様に口に入るものを扱う会社。
事務所と大きな倉庫が連結している支社です。
在庫数は無限大。それはそれは巨大な倉庫でした。
常温、冷蔵、冷凍庫がある。ガスコンロは事務所にあるので十分生活は可能です笑
私はここで程よく仕事をし、程よくプライベートを充実した釧路ライフを送りたいという淡い夢がありました。
本当にささやかな夢です。
それは親が商売人で盆暮れなく生活してきた人間で、ごくありふれたサラリーマンの人生とは真逆の生き方、そんな環境で育ったから、平均的なライフスタイルに憧れていたんです。
初めの3ヶ月目は試用期間だから定時の18時に帰れたけど、ガチの社員になった途端きつくなった。
翌日に客先に発送する商品のピッキング業務(荷造り)が7割。先輩上司の取引先に軽量の商品をお届けするのが2割。価格調査並びに見積書作成が1割。
こう書くと簡単に見えるけど、朝、昼、夜、ピッキング業務がある。
倉庫を駆け回っていると足が重く腰痛が出てくる。
20°と-20℃の部屋を出入りしていると体力が削られていく。食べないととてもだけど持たない。
だんだん、きた事を後悔する様になりました。
帰ることがそんなに悪いのか(定時に帰る事に罪悪感)
始めは良かった。
所長、先輩上司。
ぶっきらぼうながらも『おう松本、これやってくれや』という調子で仕事頼んでくる。
ぶっきらぼうながらも朴訥な感じがいい。札幌と言っても北海道の中では都会。
都会にいない洗練されてない感じが好感もてた。
でもふた開けてみればみんな猫被ってた。
というより実情が分かった。
ぶっきらぼうに殺伐とした印象が加味されるとそれそれは酷いものです。
結局はこの支店は『倉庫』が悩み、不信、怒りを生み出す元凶でした。
実在庫と帳簿上在庫が違う。はっきりいうと全部違う笑
在庫と向き合うのは棚卸しのタイミングだけではなく、棚卸し以外でも向き合います。
存在するべき商品がない。
ない商品が存在している。
こんなところで商品に関わる業務にタッチすると揉め事に巻き込まれたり、怒鳴られたりします。
『お前〇〇ないって言ったよな、倉庫見たらあったぞ』
こんなやりとりに毎回付き合うわけ笑
癌の存在は支店長でした。
倉庫の中の狂った在庫の状態に向き合おうとしなかった。17時なれば、飲みにいってしまう。
でも支店長だから文句は言えない。
一番辛かったのは、帰る際『お先に失礼します』と言っても無言の態度を取られることだった。
『お疲れさん』と返してくれてもいいだろうに。先輩社員より早く帰ることに罪悪感を日々感じる。
北見市の異動の提案があったのはそれから2年後でした。
29〜31歳(配送中、暴風雪で遭難、生死の境目。実家に帰還)
定期的に母と連絡を取り合っていました。
彼女は私の理解者でした。
どれだけ辛くても味方はいる。それを見過ごさないで欲しい。
それでも辛抱できないなら辞めて帰っておいで。
教示とともに逃げ道も用意してくれました。
景気が冷え込んでいるからこそ、『外の世界で飯を食う』という機会を得ることができない、次に戻るときは父親の経営を助ける道と決めていました。
もうこれで最後だ。そう腹を括っていたので辛抱することができました。
異動先は北見市という、前職の釧路市から2時間離れた、豪雪地帯です。
酷寒、酷暑の土地です。
仕事の内容は同じです。
2年ほど経った頃、配送中、雪原で遭難しました。ある農家のご家族に助けてもらわなければ、この世にいなかったでしょう。
2003年頃はフリーWi-Fiはありません。通信手段はガラケーでした。
少しくらいの吹雪でも配送します。しかしこの日は違いました。会社から30分ほど離れた場所に取引先のリゾートホテルにサーロインステーキ肉を配送しに向かったのですが、ホワイトアウトに見舞われました。
道路情報板に『紋別方面吹雪通行止め』と表示されていましたが、配送先は当地より1時間ほど隔たりがあるから関係ないと、引き返さず、グングン進んで行きました。
必ず通過する集落が見えた時、道路と畑の区画が雪に覆われていました。初めて見る光景にたじろぎつつも、それでも進みました。
視界は吹雪で遮られている、ハイエースのタイヤはとうとう前に進まなくなってしまいました。電波も悪くなっておりガラケーが使えないから助けを呼ぶ手段もない。
辺りにはコンビニも民家もありません。
車から出ると中と外から見る実際の視界は全く違う。引き返すべきだったと後悔しつつ、どこかに民家があるだろうと歩き出しました。
ズブズブ長靴を沈めつつ雪の中を歩いていると、3tトラクターが縦横に動いていました。
『すいませんー』と手を振ると
『なしたのよー』とトラクターの主が顔を出しました。
『ここから先のTリゾートに行こうとしてたら埋まっちゃって』
『いやいや大変だったな、笑、よし車引っ張ってやる』
『もう今日は動くのやめとけ、うちに泊まって行け』
ご好意に甘えたSさん一家は、息子さんのSさん、お父さん、お母さんの3人家族。
ご自宅の電話をかり、会社に報告。
その日の夜は一泊しました。夜ご飯は家で潰したという羊肉をご馳走になりました。
会社はそれから1年後の夏に退職、父の会社の札幌に戻りました。
セールスマン、マーケターとして力量の低さ、市場を開拓するのは無理だと実感したからです。
仕事をするという日常は力量を競い合うものだけじゃありません。
出会いがある、ビジネスの繋がりで終始するものではない、色々な側面から、人は評価をする。
好意には素直に甘える。自分も同じ様に素直な人を助ける。
その繋がりこそ人間の不変世界。
かの土地で存在したのはその世界を実感するための4年間でした。
31歳、経営者の父と共に(無力感を味わう)
食材卸総合業の前職と、父の会社のアミューズメント業。
人間が商品の魅力を発信し、買って頂くものという面で共通しています。
私の場合、上述した4年間で得たものは上が『白といえば。白黒といえば黒』という軍隊的な思想。
経験のない時期は嫌が応にも命令された事は飲み込まなくては行けない。
反芻する前に飲み込まなくてはいけない。
それに刃向かう知能や有無を言わせぬ技術があればいい、そうでないものは三流。三流は刃向えば、その先はホームレスです。
そこには確信がありました。倉庫作業で培った体力がある、筋力をあげるため指立て伏せもしました。
倉庫の二階に死角のスペースがありましたから、商品を取りに行ったついでに50回とかね笑。冷凍庫の棚に堆く積まれた段ボールの死角を利用して50回とか。
あほかって思います笑
要は気合的な精神だけで会社を立ち回ろうとしていました。
もちろん開発、企画、制作、経理が所轄され、専門領域として朝9時から夕方18時まで時間管理を持って業務に臨んでいる社員たちと比べると劣ります。
それは社会人としてです。
経営業に臨む前に店舗の食品在庫やゲーム機の売上管理をする店舗事務の職に着きましたが、店舗在庫と帳簿を合わせたりする事が苦手ときたものだから、全くダメ。
上述した経理学校は友達作りに終始した事がわかります。
本社と店舗の社員のミーティング。
業者のセミナー。
新規店舗着工にあたり施工主との打ち合わせ。
etc。。。にも参加するが理解ができないから。毎日あくび。
血族というだけで使い物にならないわけです。
新規店舗立ち上げの頃は商品価格のリサーチ、仕入れ、専門業者との打ち合わせがあり
それぐらいの事はできるからいいのですが、繁忙期が終わり、日常に戻ると無の世界が待っているわけです。
33〜36歳(社員を恫喝する父から社員を守る)
机に座っても何をしたらいいか分からなかった。
他の社員はそれぞれの課の所轄下にあるからやるべき業務は予め用意されている、どんな仕事をすれば良いか分からないと途方にくれる余地が始めからないのです。
何をしたら良いのか分からなく、そして時間をやり過ごす事の毎日を送ることほど苦しい事はない。
しかし経営者は仕事は自分で作り出す事が当たり前でいなければならない存在です。
事務作業がないから途方にくれる時点で経営側のマインドに立っていないし、失格です。
今までは注意してくれる上司がいた。
しかし、この頃の私に注意する存在は父、母、叔父しかいない。彼らは立場上長として、全体を機能させる役目を負っているわけですから、息子の子守をしている暇はないのです。
虚無と自己否定の塊でした。
社長である父は経営的才覚に溢れ、過激的な一面もありました。社員を恫喝することも頻繁でした。
他社に身を置く経験から、上や業者の板挟みになる立場でもあったので、社員の辛さを完治する事はできました。
父と部下(男性)の出張で、福島、茨城、千葉、東京にお供させてもらった事があります。
新規店舗の計画が浮上し、上記の計画地にマーケティングに行ったり、近隣のアミューズメント店にリサーチに行く事がありました。
件の部下が父の右腕として参画するのですが、父のスピード感にそった確認や報告ができないとレンタカーの中で怒鳴るのです。
これがとにかく許せなかった。
『なぜ怒鳴るのか』
『社員が線路に飛び降りる様な剣幕である事が分からないのか』
口論をしたものでした。
朝礼でも他の社員がいる中で彼を怒鳴った。助けるのは私しかいなかった。
『怒鳴るのをやめてください。怒鳴れば怒鳴るほど人は萎縮する。その本質ぐらい社長なら学んでください』とね。
もちろん、今まで、みんなの前で自分にたてつくものは一人もいなかったわけだから、プライドを傷つけられたから『お前に何がわかる』と言われた。
会社は時間を対価にお金を得るところ。
生きていく上で怒鳴られる事も役目として辛抱しなければならないのかもしれない。
しかし、父も社長だからまかり通るのだろうけど、一歩外を出れば一人の人なんです。
経営のために人の尊厳を踏みにじる権利はない。
パワハラで訴えられるスレスレの時点だった。
父に立て付く事は彼を守るためでもあり、会社を守るためでもありました。
36〜37歳(ガンが進行する母の体のケアを命じられる事が役目)
健康。ガン。というキーワードが私達家族のキーワードになります。
事業ではゲームセンター、カラオケ、これらのアミューズメント事業を展開していたわけですが、2007年以降には人々の必要性は満たされていて、欲望に駆られ有り難みを感じる業態ではなくなっているように感じました。
一部のユーザーが必要であっても、これまでの様に家族、高齢者が常に必要とする業態ではありません。
簡単にいうと『健康ブーム』。
札幌市内に大型複合施設を作り、その施設の一部に温浴施設を設けました。
この経営方針は母が一手を担いました。
理由としてはこれまでにあった、ゲーム機という設置していれば『遊び』をして頂く機能的な部分だけではなく、温泉、岩盤浴のサービスを通じて、新陳代謝をあげ心身からリフレッシュして頂きたいという『癒し』を提供するサービスを追加することになりました。
これは当時彼女が癌を患っていたことによる、経験と知識が結集されたものでした。見事に人々のウォンツ(欲望)を満たすサービスになりました。
私にもこの時代は変革期でした。
これまで実施していなかった健康診断を追加し社員に病院に行って受診してもらうこと。
利益を優先する事以外に社員の健康を守る義務があるので第一種衛生管理責任者の資格を取得する事になりました。社員が多い会社では必ず一人資格者がいなければならない資格です。
業務は年に一度社員が受診できる様指示を促す。病院への予約。必要書類の管理。提出。数値に異常ある社員がいた場合の調査。
この他に母のケアを担当することになりました。
ケアの内容はフットマッサージ を覚えセラピストになり、彼女にマッサージをする事。
晴れた日に砂浴のロケーションである浜益町に行き、砂浜に穴を堀り、身体をいれデトックスする時間に付き合う事。
これは経験ある人はご存知ですが毒素がある場合、砂の中に身を横たえると体がチクチクします。
これは毒素が排出されている効果です。
フットマッサージ は彼女が通っていた院の先生から学びました。
二週間に一度の日曜日の午後15時に札幌医大の近くにある院がセミナー用に開放されていたのでそこでスキルを磨きました。
仕事と分かっていても親子である以上私情が生まれ口論になる事がありましたが、母の為なら何でもできるという気持ちがあった。職場から実家に行き、毎晩フットマッサージ をする、習うより慣れろ。毎日やる事で反射区の位置を1ヶ月もすると覚えてしまいました。
37歳(自己重要感に気づいた。そして柔道整復師学校へ通う)
社員から見ると『この一族は何をしているのだろう』という思いはよぎっていたのだと思います。
長男は出社せず、夕方17時なると、帰宅してしまう。
しかし誰もそれを指摘する勇気はない。わずかだけど罪悪感を感じていたのは事実、しかし開き直ってもいました。
幼い頃から父とキャッチボールをしたこともない。
幼い頃思い出らしい家族の思い出が残っていない。
事業欲旺盛な父の気性からやむを得ぬ事といえども、家族の時間を引き換えにした者が得る恩恵と権利だと思った。
口を出される筋合いはないと思ってた。
フットマッサージ のセラピストは国家資格ではない。社会的に認知をされるためには資格を取得するのもよかろうという事で柔道整復師の夜間学校に通うことになりました。
37歳の2010年4月1日です。
学生番号は102H14。
37〜40歳(入学から資格取得まで)
学校に通い始めました。
24歳の時、経理学校に通いましたが日商簿記の資格を取得できず失敗に終わりました。
現在の友とのつながりを得ましたが、目的はそこじゃなかったはず。言い訳に過ぎません。
40近くになって言い訳は通用しません、将来整骨院に勤める、このまま会社に居残る。
それは先のこと。資格を取ることができて次の段階を踏む事ができます。
同じ失敗は2度としない。石にかじりついてでも資格は絶対にとる。
覚悟だけはありました。家庭教師がついたこともある、しかし実践に置いて生かされる事はありませんでした。
少なくとも国家試験対策には行かされませんでした。
できが悪くテストは再試ばかり。
頭が悪いという以前に勉強の方法がわかりませんでした。
40近くになり、勉強の仕方というものを初めて講師から学びました。
要は配点の低い科目に全身全霊を注ぎ込まない。配点ボリュームの多い、柔道整復理論、解剖学、生理学、ここに注力し、過去問をやりまくりました。
3年目の結果、ギリギリの得点ながらも合格し、柔道整復師の国家資格を得ました。
簡単にまとめていますが数々の難関がありました。
勉強、こと合格を狙う事が目的である場合、無駄な勉強はしない。飲みに行く事は必要ない。
意識の低い人間とは関わらない。日常生活、選択肢を限定する。
試験は才能のあるなしではなく、テクニックである事を実感しました。
本来勉強する事は楽しい事、世界が広がり、豊かになる事。
それなのになぜ幼少時から勉強が嫌いだったのか?勉強が悪いのではなく、教える側に資質がなく魅力がないから子供は勉強が嫌いになるのです。
40歳(汚れた40代①〜無断退職1)
柔道整復師になったら親の会社で社員たちにマッサージを福利厚生で施術したいと考えていました。
その前に、まずマッサージの技術を外の世界で学びマスターする事。
その為に2013年5月に鍼灸師の女性経営者が経営する整骨院で開業スタッフとして研修を受ける事になりました。
足裏マッサージを覚えて、親からうまいとか才能があるなど言われて調子に乗っていたんですよね。
指摘される事に屈辱を感じました。
『指が刺さって痛い』だの『体重が載っていない』だの。
留年して、国家試験を三度受けて受かったという、年下の院長(当時26歳)から指導を受ける事にも屈辱を感じました。
3日目ほど立つと嫌気が差してくる、そうなるともう働きたいという気にならない。
それから、オープンの2日前に飛びました。
電話はしたくないから、LINEで『すいません、やめます』だけです。
はい。認めます。
最悪ですね、40すぎて。
しかしこの時割り切っていました。マッサージという技術を覚えまくる。利用価値や将来性のない職場は断ち切る。
技術を習得する事が全て。
この整骨院を飛んだ後、大手のマッサージ店でバイトをし、手技を覚えました。
マッサージにはうつ伏せ、横向き、仰向けがあります。
ざっくりと雛形を流れとして学ぶ必要がありました。
針を通す様な技術は後から付け加えれば良いと思っていました。
ためらいは全く感じていませんでした。
40〜41歳(デイサービスをなりをひそめる場所として選ぶ)
後述しますが40代は無断退職を続けました。それは順を追って書いていきます。
業界は狭いです。しかも経営者、院長は母校が一緒です。
私の悪評が飛散する事が想定されました。
なので2社目も整骨院で働く選択肢から削除しました。
次も同レベルの事で辞めた場合、業界で生きていきづらくなることを想定したからです。
そうなればデイサービスしかありません。脳疾患の後遺症により関節の機能が落ちた利用者や認知症の利用者に対して、体操や軽いマッサージを行う他に運動に関する計画書類の作成。
意図した世界ではなく、全く面白い仕事ではありません。
これならば20歳の時にとった介護福祉士の頃に参入すればよかったと思いましたし、自分を騙している気持ちになりました。
高齢者事業は基本職場の中がまったりしています。
利用者のペースに合わせることも苦労しましたが、優しい方がいらっしゃるので癒されることもありました。
2、3年はデイサービス業界を隠蓑にしておこうと考えていました。
しかしこの考え方は人生の代償が大きかったと思います。
42歳(母親の最後を看取りたいからデイサービスを辞めた)
心の中の霧が晴れない頃でした。
母が甲状腺癌の末期で病巣が転移し、余命幾ばくもなかったんです。
仕事もやりがいがない。
彼女が生きているうちに結婚することも叶わなかった。何も恩返しができずに別れる、負い目を感じていました。
晴れることのない雲。
気分が雲で覆われていました。
2015年11月31日退職。
母の看護がしたかったからです。死の寸前まで立ち会いたい。心からの願いでした。
同年12月10日に死去。北大病院にて。夜19時ごろに容体が急変し、看取りました。
彼女は経営者の父のよき相棒でした。
仕事を休職していると嘘をつきましたが、聡い彼女に嘘は通用はしませんでした。
父は私が退職した事をなぜ止められなんだ?と詰られたと後年漏らしていました。
母から理解はされなかったが私の選択は間違っていません。
最愛の家族の別れに付き添うのは息子の務め。
会社は邪魔する事も、操作する事もできない。
息を引き取る間際、人は苦しみます。
足裏マッサージには病人を苦しまずにして差し上げる手技がある、師から教えられたその方法を使って介錯した。
この時初めて自分の役割を発揮できたと悲しみとは裏腹に感無量のやり切った思いに満たされました。
閑話休題
40代前半は目まぐるしく状況が変わりました。
最愛の家族の死。父の会社が業績悪化となり他社のM & Aになり、社長業を退きました。
これまで親は人生の道標でした。
経済的に困れば支援してくれる存在であり、社会活動で障壁にぶち当たれば、最良の術を教えてくれる。反論する事がなかったわけではないのですが、その経験と影響を背景する力を信じて疑いませんでした。
無条件で人生の高みに引き上げてくれる存在はいない。
『挑戦とはやってみなければわからない』この表現に会社員は相応しくない。
相応しいものは『ネットビジネス』
約4年間、費やしましたが稼げませんでした。笑
その理由を後述していきます。
大事な、大事な4年を費やして得たものは、無知蒙昧と失敗の経験です。
43歳(所属すれば金が入ると錯覚するネットワークビジネスに参入)
人に時間を操作されない自由を手に入れたい。
金が欲しい。
環境を変える為に、自己成長する過程で自分と向き合う事ができない者が陥りがちな、フワフワした妄念で生活していました。
そこでFacebookでネットワークビジネスの発信をしている若者にコンタクトを取りました。
『スマホ一つで』『自由を手に入れる為に』『いやな会社員生活から解放』このようなキーワードは当時魅惑的な世界に感じました、そして14万を振り込み参入したのです。
業態と呼ぶには今となっては恥ずかしい代物ですが、Facebookで思想、読書感想、日常生活であったことを投稿し、ファンになった読者にLINE登録させ、管理者の若者に紹介をし、入会完了となれば手数料が私に入る仕組みです。
オンラインカジノとググってもらえればわかるはずです。
若者のグループは都道府県に点在し、私は広島に所属していました、東京の新宿でも参加者の集いがあり、2016年の5月頃に私も参加しました。
結局はニートをやっているわけですから、収入を手に入れない限りは自由もへったくれもないわけです。
ネットワークビジネスに必要なスキルは入会して、金を儲けたい、その為に入会料を払わなくてはもうチャンスを失ってしまうと焦らせる扇動です。
人を成長させ、豊かにする為に扇動するのは正しい事ですが、この人たちのビジネスにはそれを言語化する為に落とし込み、後進に指導する勉強が足りていないから、私も何をしたらいいのかわからなかった。
ネットでアクセスを集めたところで金が入ってくるわけではありませんからね。
一番稼いだという男性二人が表彰されたのですが、見かけも口調も高圧的で怖い印象。こういう人間たちはどういう稼ぎ方をしているんだろうと考えた時、強引に人を煽り、お金を頂く様が容易に想像されました。
イメージであれ、営業であれ、人に押し付けるビジネスは自分にはできないし、これ以上いても時間の浪費という事でフェイドアウトしました。
連絡は誰とも取っていません。
神戸市に住む母子家庭の男性からカメラ物販を学ぶ
『スマホ一台で、ポチポチするだけで』
ネットビジネス業界はこんなキャッチコピーが出回り、情報弱者を食い物にしていました。
食っていく為に他の戦術に頼らなければならないとFacebookを巡回していた頃、神戸の男性と出会いました。
幼少時に父親と死別し、苦心して大学にいかせてくれた母親を裕福にしてあげたいというエピソードがあります。ネットビジネスで飯を食うものは胡散臭いイメージがありますが、発信者が職場で上司からパワハラを受け苦労した的なエピソードがあるとより身近に感じるものです。
物販は在庫を仕入れ、家で保管しなければ成り立ちません。
もし売れなかったらどうしようという不安も拭えなかったのですが、泥臭い人生経験と生い立ちに触れるにつれ、拒絶が一歩踏み出してみようという勇気に変わり、25万のコンサル代金を払いました。
商材は一眼レフカメラ。
スマホの時代にこんなもの需要があるのかと半信半疑でした。
しかし車と同様、中古はヴィンテージとして資産価値があり、1000万ぐらいのものでも金持ちに取って需要のある商材というのです。
(ここでは販売手法は枚挙にいとまないので割愛します。)
40000円の仕入れ値で一台買い、フリマアプリで出品し、70000円以上で落札されました。
利益は30000円以上。初めて自分の力で稼ぎ、ネットビジネスの威力を実感しました。
朝、夜、出品を繰り返すだけで値段交渉もされず、あっという間に落札。
『これホンマ?』『嘘じゃないの?』とほっぺをつねりました。
出品するだけで万人の目に自分の商品が見られ、高単価で商品が購入される。
短時間で、レバレッジがきく、こんなことを知ったら一般企業で働くなど馬鹿くさい。
ネットビジネスの破壊力を実感し、より深みに入っていきたいという思いが強まりました。
43〜45歳(汚れた40代②2社を無断退職)
胸を張って言えることではありませんが、私は2社を相手にやってのけました。
1社目はデイサービス。
作業療法士、理学療法士の若者が立ち上げた店舗で、中は3人の女性スタッフが働いていました。
主婦、20代の女性たちで、その中の一人の主婦の方が綺麗な人で、私に対して好意を持ってくれているような感じがしました。
後の二人は喫煙者、小柄で声の甲高い人たちでした。
この二人に共通するのは陰口を叩くところです。
デイサービスにはトレーニングマシーンが存在し、身体のレベルに応じて誘導するのですが、間違ったところに誘導すると、朗らかだった印象的が一変し『そこじゃありません』と氷が張り付いた様な表情を浮かべるのです。
冷たい態度を取られると、同じ事を繰り返す。
みんなで検温していた時、検温が終わった人の手首に機械を巻きつけてしまった時も『もう終わりましたよ』とキツイ口調で言われ、『俺受け入れられていないんだな』と凹んだ。
そうなると自然と距離が生まれる。
対して美人さんの方は優しいし、小ネタなんか、適当な時間が開いた時に振ってくれるから、ますますそっちの方に行ってしまう笑
凡ミスはするし、自分たちに媚びずに、美人さんの方とばかり話すから、うざい男だと思ってんでしょうね。
またもや、凡ミスをした時、お互い目で合図をし、昼に休憩室に入ると、『また、やらかしてさあ』と談笑しているところに出くわし、後味が悪くなって、その場を離れました。
時給1000円だったかなあ。
『ああ、ここでは俺も無理』と頭によぎり、次の朝、飛びました。
2社目もデイサービス。
住居施設のある、大型の店舗でした。
ここも女性が多い。
3、4ヶ月勤務させて頂きました。
送迎業務がありまして、この業界は付き添いがいなく、運転、介助、電話の応対をやらされる、非常にタスクの多い職種なんですよね。
運転中に携帯はアウトですが、業界ではまかり通っている、不思議です。
ある夕方、自宅にお送りした際、杖を使用している高齢男性が認知症の人なのですが、自分からシートベルトを外し、座席から立ち上がり、ドアの前で転倒しました。
こちらからすれば、勝手に転んだんだから知らんがなといいたいところですが、見守り不行届きという罪状がつき、管理者女性からキツイ口調で『なんで?』と詰問されました。
なんでも何も、こちらからすれば『こっちは千手観音じゃねえんだわ』『ましてや補助スタッフがいないのに、10人近い利用者の送迎やらされること自体リスクありすぎじゃねえかよ』という思いが噴出し、言葉にこそ出さなかったけど。
一瞬腹が立って、目線をそらして『ああ、わかりました、気をつけますね』と返事したら、それがカンに触ったのか『あいつ、目合わせなかったから』と詰所で周りのスタッフに共感してもらいたさに声を張り上げていました。
次はレクリエーションで、パークゴルフがあったお昼に、ゴルフ場を歩く時、手をつないでいた歩行困難の高齢女性が木の根っこに爪先をひっかけ、転倒しました。
この時、この方は、『先生、この件は黙っておいて、私が悪いんだから』と機転をきかせ、報告する事を避ける様に促してくれたんですが、万が一、怪我の事象に発展してたら、回復力の落ちたご年齢ですから、悪化する事を想定し、帰社後、報告したら
『なんで、同じ事繰り返すの?』と詰問されました。
まあ自分を守らなくてはいけないし、一方的に悪になりたくないのので、自己弁護をその時もしたんですが、詰所で『毎回毎回、なんなのあいつ』と発狂せんばかりに、スタッフに捲し立てていました。
この頃にはもう開き直っていたので、捲し立てている現場に、入り『いま、お話されているの私の事ですか?』と質問したら、無言でムッとした表情を浮かべていました。
『も、俺やめよ』と飛んだわけです。
それでも常識的な悪のはずだろ?無断退職は。
職務放棄として、多数の方にご迷惑をかける、行為です。
大人としての責任能力がないのか?と言われた場合、堂々と反論する事はできません。
この頃、人生の主役は自分。理不尽な評価を一方的に下され、排他されることに嫌悪したし、そんな場を我慢するぐらいなら、ネットビジネス一本でやっていくわ的な開きなおりがあったのです。
しかし、当時並行していたカメラ物販の利益も10万いくかいかないか止まり。
これでは税金どころか、固定費払うのもギリギリだったので、掛け持ちするしかないので求人に応募させて頂いたわけです。
飛んだ時には、『ああ、貯金また切り崩さなければならないな』と思う反面、心の中に爽やかな風が通り過ぎて、解放感を感じ、『ああ逃げて正解』と思ったのも事実です。
46歳(プログラミングデビュー。成果物を作れず死亡)
プログラミングというのは上級の知能を持つ者たちしかできないというイメージがありました。
ネットを何気なく眺めていると、初心者にも門戸を開放している、『志ある者いざ学び舎へ』と広告が出ていました。
難しいということは参入障壁が高い。何故ならば難しい。難しそうな暗号が沢山むきあわなければならないから根気のないものは匙を投げる、だから稼げるやってみようと思ったわけです。
当時はまだカメラをやっていたものですが、フリマアプリを見ていると徐々に見たことのないものが出品しているわけでして。
カメラは撮影技術をマスターすれば猿でもできるスキルな訳です。
月収も7万〜10万ギリギリ。水は低きに流れ、人は易きに流れる、
これに反する知識の習得をして、稼ぎたかったんです。
プログラミングスクールに通い始めました。
30万授業料を払い、翌日に地下鉄に乗って通学を開始しました。スクール内は20代と思しき人たち、もしくは会社から派遣され学んでいる人たちばかりでした。
自分は50近くになり、勉強といえば、柔整の国家試験にクリアしたぐらい。学校といえば静まり返った雰囲気からしてトラウマ笑
変数とか、何それ?と質問するのも恥ずかしかったです。
『聞く』『質問』というのは一番苦手な行動、さっき説明したのに馬鹿じゃないの?こう相手は思っているだろうなあと考える。
学校に通うのも面倒になり、YouTubeのアカウントを参考にプログラミングのコードを写経するが良いという事でノートに写経するという意味不明の行動を1年間続けました。
無のうちは教本に書かれている事を読み、不明点を講師に質問して、考える事で知識を身につけ、追々作品を作るか、コンテンツ作りにガンガン励みものにするか、その方法しかない。
しかし私はどれにも向き合わなかった。
教本に書かれているコードを書き、卒業した。
その足で就職活動したが、成果物を作っていない、年齢的に厳しいと落とされ、道を断念した。
金をドブに捨てるとはこの事だなと実感しました。
47歳(自堕落な自分を変える必要があった〜整形外科のパートデビュー)
整形外科で働き始めました。
起業し稼ぐ事を前提に40代は無職の道を選んだのですが、どうやらこのまま進むと取り返しのつかない人生を歩む事になると危機感を感じました。
いろんな事を始めました。
でも何か一つ、『これ一本でメシ食えるぜと胸張れるか』というと、違う!
認めたくないけど、認めざるを得ない。この頃、『最初から気付けよ』という話ですが、私にあるものは柔道整復師の資格を使って、現状、社会に何を表現できるかという事だったんです。
カメラ、アマゾン物販、プログラミング、新しい事に挑戦しては見ました。あうあわないは生活ができて言えという話。
失敗談を語れても、キャリアが積む事ができていないから焦りを感じていたんです。
ノウハウコレクターでパートを始めたり、やめたり、都合が悪くなると逃げる自分にも嫌気がさしていました。『こんなカスの人生を積み上げて歳をとりたくない』と。
どこにも属さない人生を目指したからこそ、起業しました。
しかしそれは自己統御できなければおしまいです。飼い慣らされた人間には難関です。
極論いえば、サラリーマンは出勤すれば給料は入ってきます。起業はそういうわけには行きません。
自分でプロデュースし、成功に向かって自分自身を誘導していかなければならない。
寝たい時に寝、食べたい時に食べる、そんな甘い根性では成功しません。正しく自分はこのタイプだったんです。
一度起業活動をリセットし、働く選択を取りました、整形外科のパートスタッフの求人に応募し、その一週間後に働きました。金はネットビジネスで散在し、懐事情もやばくなっていたので仕事をしなければならなかったという事もありますが、整形外科以外では考えられなかった。
飛び癖の付いている当時のチキンマインドでは整骨院勤務はハードルが高すぎた。
私はやはり、根底はマッサージ師です。銭儲けではなく、人のお役に立つという名目でフットマッサージを学び、資格を得た、昔学んだ事を深掘りする為にはこのタイミングを置いて他にはないと実感したのです。まずは整形外科で働き、医療よりの知見を身に付けさせて頂こうと。
予想はしていましたが、スタッフの中では私は最年長でした。
同僚は柔道整復師の養成学校に通う学生達でした。彼らは昼間学校に行き、授業が終わった夕方に病院に出勤してきます。学生というのは親御さんの仕送りで学校に通い、勉強し、国家試験を受けて、合格を果たす、この本分を勤めれば良いのだけれども、彼らはすでに実社会を意識して、働いている。このシンプルでいて、自己を追い詰めるマインドに人生の濃さは正しくこれなんだと、背中を見せてもらったんですよね。
整形外科の業務は初めてだったし、マッサージが下手だとか、もみ返しがきたとクレームが入り、凹む事もありました。でも無断退職という選択は初めからなかった。もうそれをすれば業界の落伍者です。ましてやおじさんですよ。若い人から最低な奴だと思われる事だけはしたくなかった、そんな一面が自分を律する部分だという事を改めて知った頃でもありました。
2022年、彼女と結婚(4年間の恋愛期間を得て)
起業したと言っても、ぱっと見、プー太郎の様な生活。
よく見捨てられなかったなあと思います。
彼女には2021年の夏にプロポースし、翌年2022年1月11日に入籍しました。
いずれは生活を共にする関係になるんだろうとうっすら思いながらも、ズルズル間延びさせてきました。失いたくない存在である事は明白なわけだから、もう結婚してもらおうと思ったのです。
彼女ならば私の父と弟と仲良くしてくれると思った。
それは生来の優しさを持っていること、看護師の資格を20歳で取得し、20年以上、実績を積み上げてきた気性の激しさも理由です。
他人と仲良く関係を築くという事は、相手の都合の良いところばかりではなく、醜い部分にも対峙しなければなりません。それには精神的な強さというものが必要。
付き合った当初は私に惚れてくれたのかもしれない。でもだんだん私という人間のメッキは剥がれてくる、おまけに無職。
でも私を一度も『みっともない』とか『だらしない』と責めた事は一度もありませんでした。
もう年齢的に出会いがなかったから妥協したのかなと思う事がありますが笑
こんな私と一緒になってくれてありがとうです。
私は元来、恋愛を長続きする事が苦手でした。
付き合い始めはラブラブで良い。でも飽きっぽいからそのうち賢者モードになってくる。
長い関係で居続ける為には、『ずっと一緒にいよう』とか『ずっとなんでも共有しよう』というのは次第に足かせになってくる。
一人の時間を確保したいというのが私のスタンスです。
絶えず一緒にいるというのは息が詰まります。結婚した現在でもそうです。仕事の休みの日にカフェに行ったとしても、帰宅したら、ブログを書いたり、読書をするスペースや距離を作ります。
それを尊重してくれない相手は無理でした。
いつも最後は破綻する関係で終わった。
結婚する前は二人が楽しく幸せな関係でいること以外見えていませんでした。
しかし一つ屋根の生活を共にするようになってから、自分たちに関わる全ての人が幸せでなくては、本当の意味での幸せは実感する事はできないと思うようになる。
そして、幸せという恩恵が得られるという価値観を持つようになった。
お互いに言葉に出した事はないけど、妻もなんとなくそんな価値観を持っているのではないかなと思います。
49歳(開業権を得る為に整骨院で勤務始める)
整形外科で勤務をしてから、一年半が経ちました。
朝起き、仕事に行くという当たり前の日常を生きる事が浸透してきた頃です。
規則正しい生活になじんだ。
次にステップアップしようと模索していた頃。
『そうだ俺はこうして整形で働いているけど、その世界の君臨者は医師であり、理学療法士だ』
『残念ながら柔道整復師はそのパイを奪う事はできない』
『整骨院こそ、柔道整復師の城なのだ』
その原点を再確認した時、整骨院の経営者になるとか、業界を好むと好まざるとに関わらず、資格をとったならば整骨院で飯を食わなければ、本質はわかるはずはないと思ったのです。
整骨院経営をするには管理柔道整復師になる事が必要です。
国家資格を取ったら開業できるわけではありません。
最低でも2年の整骨院勤務が必要という決まりが法律で定められています。
思えば、上述しているように40歳の時整骨院無断退職しました。
もちろん今度はそんな事はできない、そんな事をしていれば『管理柔道整復師』の認可は一生もらう事はできないからです。
管理柔道整復師にならなければ、『お勤め』の身分のままです。一生、収入、時間を管理される立場のままです。
でも経営できる権利があれば、経営もお勤めも、どの身分を選ぶか選択する立場でいられます。
選択肢は必要。
『50歳、これが最後のチャンスだ』
整形外科が休みの日に求人に応募し、面接を受ける。そして企業の内定が決まりました。
一年半の整形外科のパート勤務から退職し、管理柔道整復師の認可を得る為、整骨院勤務を開始しました。
働く前に決めていた事があります。
どんな事があっても管理柔道整復師を得る為に『1年間の実務経験を経る』縛りがあります。
●1年間は絶対に辞めないこと。
●整骨院では多種多様な症状を持つ患者さんの体を施術する、その経験を通じ、知識にする。
●人の体を型に当てはめて、マッサージをしない。
●帰宅したら、痛みを取れなかった患者さんの疑問をYouTubeで調べる。
51歳(まあ、何とか逃げずに留まった)
整骨院で勤務をしているのは、経営する権利を獲得するためです。
権利を得る事は手段。
不本意ながら胸を張れる生き方をできませんでした。
理由は明確です。
例えば、妻のご両親に、私の40代の履歴書は恥ずかしくて見せれません。
40代の自己否定を50代に持ち越す事はできない。
実務経験を積み、整骨院の経営権を獲得する、それが自分の人生に対しての免罪符でした。
2年半働いた結論として整骨院の経営者は目指さない
ここから、流れを細分化します。
経営権を得ることは手段です。
過去の罪滅ぼしを追っても終わりはない、罪の意識からから一旦自分を解放しなければなりません。
柔道整復師という仕事は『土方』です。
この職業を永続的にやり抜くには若さと体力が必要です。
その2年間余りの経験から開業をしない結論に至りました。
まず、これは整骨院以外の業種にも言えるが、働きづくめの人生で、夫婦のこれからの人生を犠牲にしたくはない事です。
入社時に『いくら給料が欲しい?』と尋ねられました。
『年収500万は』と適当に答えたら『叶うよ』と即答で一言。
しかし、患者を揉んで揉んで。さばいてさばききらないと叶わない数字だと改めて身体で実感した。
役職も院長にならないかという提案があったけど、お断りしました。
朝9時から夜20時を週6で勤務。月末になるとレセプト業務で夜23時まで、居残りをするのがザラ。おまけにサービス残業。
昇給は望まないかわりに、定時に帰るという要望を出しました。
月20時間以内の残業と月6日の休み以外に祝日の休みは確保されています。
とはいうものの、週一の外食や年一回の旅行を夫婦の人生に取り入れるならば、やはりお金が必要。
副業をする。その前提として勉強を去年の7月から始めました。
労働で稼げない穴埋めを情報発信ビジネスで埋める
情報発信を始めたのは老後の経済的不安を拭いたかったからです。
こと日本は経済的に裕福な国ではなくなりました。
整骨院勤務は管理柔道整復師の認可を得るために続けている事です、しかし、細やかに余裕を持って生活をできるという両輪を担うものに足るのかと言えばチト厳しい。
2年以上整骨院で勤務をしておりますが実際の給料では貯蓄が増えないということが判明。
その理由は整骨院経営の仕組みに問題があるのですが、あえてここでは語りません。
不安を乗り越えるために始めたこと。
それは情報発信をするために根本から基礎を学び始めました。
学びの手本となったものは年間で数十億円、情報発信で稼ぐ人の動画を聞くことでした。
学ぶことで思考力を高めたかったのです。
私はかつてフリマアプリを使ってカメラを販売していました、しかし販売には波があります、売れるとき、売れないときという流れが必ずおとずれます。
カメラを販売するという手法は戦術です。
戦術を駆使することは大事なことですが、いざ売れないときに要因を探り、解決を見つける事はビジネスの基本です。
学ぶことで思考の重要性を認識すると同時に、これまで思考するという基本がスポンと抜け落ち、戦術に頼り生きてきたことを痛感しました。
カメラ物販の師匠がいますが、売れないというスランプが訪れたときに師匠に常に泣きついていました。いわば依存です、師匠がいなくては生きていけないという状態にふさわしい。これではいつになっても独り立ちすることができません。
学んでみて感じたことは、整骨院でもネットでもサービスを伝え、価値を共有し、共感を得、購入につなげる事のあり方に変わりはないという事。
違いはテキストで伝えることと生の声で伝えることのスタイルの違いだけ 。
整骨院に来る患者さんもフリマアプリでカメラを購入するお客さんも、 サービスを購入する対象であることに変わりはありません。
共通することは伝えるべき段階や言葉を間違えると購入にはつながらない、それを知ることができた大というのは大きな収穫でした。